昭和54年9月18日   朝の御理解

                    
 御理解第79節
 「商売をするなら買場賣場と云うて元を仕込む所と賣先とを大事にせよ人が口錢を拾錢かけるものなら八錢かけよ目先は貳錢損のやうでも安うすれば數が賣れるから矢張り其の方が得ぢや身體はちびるものではないから働くがよい」                
       
 確かに安く売れば売れる事は間違いないですね。人が拾錢で売るものを八錢で売ると、そこにはお客さんが確かに集まるでしょ。ところがただ売れた売れたと言うておかげを受けただけではいけんのです。例えばそうせずにはおれんと言うところまで信心を進めなければ駄目なんです。      
 これは一事が万事に言える事ですから。まあ例えて申しますと先日から昨日でしたか小竹の加藤さん、電器屋さん何か電器屋さんの組合で別府で何か総会がある。まあ兎に角行ったところでまあ飲んだり食べたりすると言ったような事ばっかりだからもう行くまいと言うてお取次を頂いてから断られた。それでなら、日田あたりなっと行こうかと言うてから奥さんを連れてから日田に初めてお出になられたそうです。
 そしてどこへ行かれたかと言うとこの頃十三日会の時に、この前のでしたかね。十三日会の時に発表しておられた。その発表が素晴らしかったから、あの方の家に行こうと言うて高野食料品店ですか。ね、その尋ねて行かれた。高野さんも大変喜ばれて信心話に花が咲いたと言うわけです。
 昨日そんな御礼の電話がかかって参りました。そりゃ高野さんも喜びなさったろうが、あなた方もおかげを頂いて来たろうと言うてまあ話した事でしたが。ま、兎に角、商品と話し合いが出来ると言われる。その高野のさんの信心を聞きたいと祈ってあったそうです。本当にそうですね。いかにもその乾物とか缶詰やらが物言う筈がないのだけれども信心が段々深めていくと、それが響いてくる。   乾物が高野さんを呼び止めて符帳を付け替えてくれとこう言うた。まあ例えて言うなら拾錢とつけてあったものを八錢と付け替えられた。そりゃどうしてそんなに、まそんなに安う符帳を付け替えてくれと言うのかと言うたら商品がまた言う事です。ま言うなら感じられる事ですね。
 ここに拾錢でおいてあったぶんではいつまでたっても売れない。八錢で売ってくれると自分達が早く人間のいわゆる家庭にまわる事が出来れば人間のお腹の中に入って行く事も出来る。自分達の生命、自分達の命がそこに言うなら価値感を増してくるんだと言う意味の事をま乾物が言うたとそんな感情を受けられた。
 そこで全商品のその商品のいわば商札を付け替えられた。すぐ後先に大きなス-パ-マ-ケットがあるそうですけども、一番初めにマ-ケットが出来る時に商売替えをすると言うお届けがありました。けれども兎に角あの小売店、普通の言うならば大きな資本をかけての商売ぢゃなくて、小さい小商売なら小商売ぢゃなからなければ出来ない。例えばサ-ビスがあるはずだと一人一人に思いを込める、お客さんの一人一人に喜んでもらうと言う生き方にして。尚そのまま続けなさいと言うて続けておられるのが今日の高野食料品店です。 だから、そう言う事を聞いておられたから高野さんの話を聞こうと言うてま行かれたと言う事でございます。やはり、生きた話を聞かにゃいけませんね。だからね、ただね。言うならばあの安さえすれば売れる、売れれば必ず儲かる、それだけではいかんのです。何如安く売らなければ、言うならばそこが道理が分かって安く売るのであり、そこが分かって売上が言うなら倍増するのであり、ね。それから先の事も信心が分からないと一時的な繁昌で終わってしまうのです。                           十五日の富久信会は商売人ばっかりが集まる信心共励ですが、文男先生が発表しとりました。信心が出来んのにまた売れたまた売れたと言うように大繁昌のおかげを頂いたら、これはもう言うならばまた損するまたつぶれる元だと言ってるんです。だから私はもう絶対その売れたからと言うて調子に乗らない。次のまた商いをさせて頂くためには、もう次の信心の心の中に確かなものを頂いて次に進むようにしておると言う話をされ、それも実感をこめて確かに自分の体験ですから、もう自信たっぷりで話しておりました。
 あの時、聞かれた方達はもう本当にあのう一つの信念を持って商売をする。いうなら分かる所が分かって、受け物を作っておかげを受けると言う生き方にならなければ行けないと言うようにですね。私はそう言うふうに思うんです。
 例えば、ならこの御教えを頂いて成程それも大変度胸のいる事ですよね。拾錢のものは八錢で売りなさい。数が余計売れるとその方が得だと言われたからと言うて、信心も分からんのにぱっとそれをしたら、はあ先生が言いなさる通りにどんどん売れるごつなりました。ところがそれはまた次の失敗を招く元だとこう言うのです。
 昨日合楽会でしたが、私は昨日初めて詳しく聞かせて頂いたんですけれども、この頃総会の時に秋永先生のところの孫の静男くんが飛び込み台から飛び込んだと言う話を聞いて、まあ本当に子供と言いながら、どげなこっでんすると思いよったら昨日詳しく聞いたんですけど。そのお母さんがちょっと手洗いに行っとる間の出来事だったそうですね。まあだ四才なんです。
 それで兄ちゃん達が皆飛び込むもんぢゃけん、自分も飛び込んだち。それから監視員の人もそれを見ておったそうです。はああの坊やはこうまかなりしてから泳ぎきるとばいなあと思うてから、溺れよるとば見てからですね。あの泳ぎよるとかち思たげな。そして人工呼吸してからたくさん水を飲んどったそうです。だからあれはちよっと油断しとったら、本当におしまいになったような事にもなりかねないような事だったと。
 そりゃあ、おかげを頂いとったなあと言って、昨日聞いて思た事でした。言うならば大胆と言おうか、あのう思い切ると言おうか。例えば拾錢のものを八錢で売れと、はいとすぱっとすると言う事では危険だと言う事です。言うならば泳ぎを覚えてからでないと出来ないと言う事です。信心もそうです。
 誰が真似ではいかんのですね。一段一段信心を分からせて頂いて、例えば最近言われる、あの観念の問題ね。観念が邪魔をする。おかげのね。学が身を食うと言うが、例えば少しばかりの常識が医薬、食べ物なんかでもです。この食べ物は何の病気に良いとか悪いとかと言うような。ま、栄養学的に言うと確かにそう言う一つの学問にまでなる位なものだそうですけれどもです。なら、これは私が頂くと何を飲んでも食べても栄養になるのです。
 観念をなくしておるからです。だから糖尿病には甘い物はいかん、辛いものはいかん。腎臓にはこれがいかんと言われても私は食膳に上がったものを一切を神乍ら命のためにと言う事が分かって、それを頂くようになったから、言わば無観念のところでそれを頂くから、言うならば医学では到底分からない、ならおかげの世界がそこにあるわけですから。その観念を取っていく稽古をするんです。    お商売人がはあ今は、田舎の事で言うならば農繁期だから商いが少ないともう観念に決めてしまっておるのです。雨季にども入るともう雨ばっかりだからお客さんが少ないともう決めてねんです。そういう観念をかなぐり捨てです。神様が下さる、言うならば農繁期でお百姓さんが出て来られんならば、ね百姓をしてない人に出て来てもらえばいいぢゃないかと。もう雨の降る日でなからなければ外に出られんと言うような人達が買い物に来てもらったらよかろうが。私はその生き方ですね。
 だから、ならここのお広前の例えば参拝なら参拝者の数と言うのはこちらの力を頂いただけでは、降ろうが照ろうがどういう事情があろうが変わらんですね。はあ農繁期だから田舎のこの田園教会の事だからお参りが少なかろうと、そう決めてしまうからお参りが少ないのです。
 だから信心させて頂いて、私は一段一段分かると、本当の御神愛が分かると言う事は観念を取っていかなければ、観念がおかげの邪魔を致します。言うならば人間心を非常に使うようになりますからおかげにならんです。言うならば神心、神乍らな生き方を身に付けていくためにどうしても観念を取らなければと言うて、ならそれが取れておる人の真似をすると、静男君が泳ぎもしきらんとに人の真似をして飛び込み台から飛び込むような事になりかねないのです。 ね、昨日久富繁雄さんが発表しとられましたが、今いつもここでテ-プを入れて帰られます。それで一家四人でお野菜の揃えやら、手取りやらをなさるわけです。夕べも遅まで一生懸命朝市場に出すその用意をして来たと言いよんなさいましたが、そのそう言う一家四人で御用される時に必ずテ-プをかけられるんだそうです。
 それをこの頃は非常に信心のない嫁ごも楽しんで聞いてくれるようになったと言うお話をなさっておられましたが。その中にたまたまその息子さんの国雄さんの事が御理解の中に出たわけです。まあお父さんの信心で一家中の一家一門の者が助かっとるけども国雄さんと言うのは長男ですけども、その長男の信心はね。まう言うならば浮袋をもって泳いでおるようなものだと言う御理解が出たところを聞いたと言うのです。
 ね、国雄さんがも自分はひとかとの信心になっとるごと思いよるばってん、まあだ親の信心でおかげを受け取るとばいて。あれもおかげ、これもおかげと思うごとおかげを受けておるけども、これはあんた達の信心ぢゃないよ。結局お父さんの信心によるものだよと。 言うならば泳ぎもまあだ浮袋にすがって泳いどる位な事だと言う事だったから、まあ国雄さんとしては、そげな事はなかと。信心はもう一通り何でん分かったつもりでおりますわけですね。
 ここででも、まあ松栄会と言えば菊栄会に次ぐ一つの権威をもった会ですね。その会員でもありますからね。もう青年会も終わってもう壮年、若壮年になりますでしょうか。もう金光様の信心なていげい分かっとるように思うけども、親先生は自分の信心をまだ浮袋につかまえちから泳ぎよる位なものだと言う。その、そげなこつはないよと言うような話が出とりゃせんだろうか。それでもう繁雄さんが国雄さんに言うとられる事です。 
 浮袋にでもすがって泳ぎの稽古をしておると言う事が有り難い事ぢゃないかと。深い所にも行けるし、例えば泳ぎきらんなら浅い所でパチャパチャやって、言うならば泳ぎの深い所で泳げれる、味わいもあるから、問題は言うならどこまででも泳いでいけれる。水袋なしで行けれるような稽古をさして頂くと言う事が願目で、親先生はそこん所を言うとんなさるとぞと言うて、まあ話したと言うお話です。ね、お互いもていがい一人前出来よるようであるけれどもです。まあだ浅い所でパチャパチャやっておるような事ぢゃないだろかと、問題は稽古をしなければダメだと言う事。
 昨日は合楽の皆さんの一人一人のお話を聞かせて頂いて本気で取り組んで、例えばあの久保山さんの話なんかは、もういつも言うならば成行きを大事にすると言う事を芯にして話されますが、そこに生き生きとした。その実験が実証を生んでおると言う事です。
 ね、それが自分の親戚の家にまでどんどん及んでいっておると言う話をなさいましたがです。ね、もう毎日お参りをされる。今日もどうぞ成行きを大切にさせて下さいと言う事にもうたった一つ覚えのようにあの言われるけども、もうこれは合楽の信心の芯ですからね。それを実験していかれる。そこから実証が生まれてくる。稽古をしていくうちにです。言うなら観念もなくなって行くだろう。泳ぎも覚えていくだろう。                    私、今日の御理解からいつも拾錢のものは八錢に符帳をつけ替えなさい。帰ったらもう直ぐつけ替えなさいと言ったような意味に、売りたいならばと言うふうに申しますけれども、それではやっぱりいけん。ね本当に神様が喜んで下さる。言うならば商品そのものも喜んでくれると言うような内容が分かってそうせずにはおれないところから、それが繁昌につながると言うおかげ。文男先生が言うところの信心が分かって繁盛するでなからなければ、それは他愛もないおかげに終わってしまう。
 売れた売れたまた売れたと言う事になったんでは必ずそれはまた失敗を招く元になると言う事を言うておりましたが。今日の私は御理解からですね。拾錢のものを八錢にする、それを付け替えるぢゃなくて、そう付け替えずにはおられない信心内容をいよいよ頂いていかなければならんと。為には本気で実験実証さしてもらうがよい。 言うならば拾錢のものを八錢でとこう言われるけれども、まず五厘でも一錢でもよい。安うしてみると言うようなところでいいだろうとこう。そしてこう何故安うせねばならないのか、それは売らんかなの為ではなくて信心が分かってくるとそうせねばおられない。 お客さんが喜んで下さる事が自分の喜びと言え、思えるようになってからで遅くはない。ますます我情我欲が募ってくると言う事はないと思う。信心させて頂いておればその我情もなくなると言う事が観念をなくすると言う事ですね。自分の思いを捨てると言う事ですからね。我欲を捨てると言うのがですね。私共の過去の私の商売なんかは、拾錢のものは拾壱錢で売ると。そして余分に儲かっただけお供えすると。もうそう言うように神様は喜んで下さる事のように思うておったが、それは間違いですね。
 拾錢のもの拾錢で売ってもよいけども、教えに忠実に。しかも忠実にでけれる内容を頂いてのそれでなからないと。言うならば受け物がでけておかげを受けると言う事にはならないと言うふうに思うんです。ね、静男君がね。泳ぎもきらんとに飛び込み台から飛び込んで、まあ溺れたと言う話。                  国雄さんがお前の信心はね。浮袋にすがて泳いでおる程度なもんだと。だからぼちぼち浮袋も取ってね。少しずつ泳ぎの稽古を本気でさせてもらえるようにならないけないぞ。そう言う稽古をして、でないとかえって危険を伴う、かえって信心して、かえって言うなら傷つくと言ったような事にもなりかねない。今日はそう言うところを聞いて頂きました。「どうぞ」